存在感のある道具

ランドローバーマガジン編集長
桜間 潤
 まれにではあるけど、道具を使っていて、たしかにその道具と一体になれた、心を通いあわせることができたと実感することがある。たとえば、薪を大量に用意する必要があって、日がなナタをふるっているとき。もともと不器用なだけに刃物の取り扱いは苦手な部類ではあるけれど、何時間も無心にナタを振り降ろし続けていれば、幾たびかは頭に思い描いたように美しく木が割れてくれる瞬間というものがある。そのとき、手にしたナタと意志が通じて、ナタが手の一部になったような気がする。
ランドローバーマガジン編集長 桜間 潤氏 筆者の愛車はランドローバーのディフェンダーというクルマなのだが、これもまたときおりドライバーとしての自分と、ふと心が通ったと思わせられる瞬間があったりする。何十年来デザインを変えていない武骨な真四角のボディを泥濘の林道へ乗り入れて、副変速機のレバーをいじったり、ATのセレクタレバーでギアを選択しながら、そろそろと前進する。タイヤが通るラインを想像しながらステアリングを回し、繊細な心で、ときに大胆な気持ちでアクセルを押したり緩めたりする。脳裏に思い描いた動きと重なるようにクルマが動いて泥濘路を抜け出たとき、クルマとの一体感に満足したりするのである。
道具と、それを使う者と。両者が繋がりあえたと思わせられるのはどういうときなのだろうか? 人それぞれに考えはあるはず。でも筆者に関しては、道具がよりプリミティブな場合に「道具との一体感」を体感できる傾向にあるように思う。
プリミティブな道具…言葉を換えれば素朴でタフな道具。虚飾とは裏腹の、使用目的に忠実な機能しか持たない道具。さらにイメージを膨らませれば、筆者には使いこなす悦びに溢れる道具と言ってもいいかもしれない。意味もない華美な装飾は論外ながら、たとえば使いやすさを過剰に演出するあまり、道具としての本質を見失った物というのは、どうやら筆者には「一体感」を感じにくかったりするようだ。筆者は自動車雑誌の編集者なので、つい自動車を例に挙げてしまうのだけれど、たとえば高級セダンと言われるクルマは、居心地はいいものの、“操る移動体”としては心を通わせることはできにくいと思ってしまったりするのである。ダッチオーブンという道具が筆者の手元にいくつかやってきた。凝った料理こそ得意じゃないけれど、もともと料理をするという行為自体は嫌いではない筆者にとって、ダッチオーブンは興味を引く道具のひとつだった。ランドローバーマガジン編集長 桜間潤氏 愛用ダッチオーブンこのホームページに来訪される方々にいまさらダッチオーブンの魅力をとうとうと語っても無意味なので多くは語らないが、まず手にした重みに道具としての存在感を感じ取って、プリミティブな道具好きには頬が緩まざるをえない。重さにちょっと手を震わせながら(笑)、ダッチオーブンを火にかける。焦げ付かないためのナントカコーティングなど施されていない、ただの分厚い鋳鉄だから、徹底的に強火にさらしてもネをあげたりはしない。ダッチオーブンはさらされた火の分だけ熱をため込み、それを素材に忠実に伝達・浸透させるのである。火にかけたダッチオーブンがため込んだ熱の総量を想像しながら、調理をしていく。素材の中にどの程度熱が浸透しているのかを思い描きながら、タイミングを見計らって火から外す。蓋を開けた瞬間に蒸気の中からイメージどおりの仕上がりで料理が姿を現してくれたとき、ダッチオーブンという道具とうまく繋がりあえた満足感に悦びを得る筆者なのである。
お気に入りとなった道具は手元から離れようとはしない。変哲もないナタも、ランドローバーも、そしてこのダッチオーブンも、筆者の側に寄り添って、まだまだ愉しませてくれそうである。こんな筆者のダッチオーブンのお話を、これからときおりつぶやくように綴っていってみたい。